「喘息」が招いた家族の不幸と幼少期

2021年6月7日 10:57 am

「喘息」それは壮絶でした。

単に父の闘病だけに留まらず幼少期の記憶は、家庭内暴力。

私の父は重度の「喘息」小児喘息を治す機会を失い、大人になっても闘病生活の日々。

私の祖父は1代で水道関係の会社を立上げた苦労人。戦時に授かった父、「過保護に育てたから、結果喘息に俺は苦しむんだ!!お前らのせいで俺の人生は台無しだ!!」が口癖でした。

結婚も祖父の会社を引き継げるしっかり者ということで料亭の娘であった母に白羽の矢。しかし父には当時別の憧れの女性がいたそうです。両親が離婚したのは3歳の頃。

父と祖父母との生活が始まります。辛かった~

変な話、父が入院しているときだけが「人間」に戻れた。

社会に出たのはわずか3ケ月。いつも死にそうな咳を繰り返し、身体からは薬の臭いをプンプンさせ、食べるものは玄米と何の味付けもない根野菜の湯がいたものだけ。

 

父は日々、祖父母を恨み、やがて暴力の日々へ

小柄な祖母はいつも顔にあざをつくり肋骨や様々を骨折し、いつも祖母と幼稚園の頃から父から逃げる生活。

最大の記憶は「無理心中未遂」

なぜか生きていた。生きていたけど死にたかった。なぜ生きてしまったのかと何度考えたことか???

 

幼少期から父が再婚する高校まで、ずっと逃げ回っていた。

祖母が身を隠す度 父は荒れ、祖母の兄の家に乗り込み暴力事件や精神病院に収監され、祖母が自殺をし、孤児院に行ったことさえありました。

いつも父が死ねばいい。それが無理なら私が死にたいと思っていました。

それでも現代とは違い、多くの人に助けられて生きてきました。感謝!!

この頃から「恩返し」という意識が芽生えるきっかけになっています。

 

高校卒業が近づき、進路を考えた時一番優先されたのは「父からの自立」

早く縁を切りたかった

早く安堵の場所が欲しかった

何度母に「なぜ生んだのか?」のか攻め立てた

父への憎しみは徐々に増した。けれど父が怖かった。

 

 

何十年も経って、脳梗塞で倒れ介護付き施設に入って数年経って・・・

弟の懇願に負けて、恐れながらも主人と面会に行った。

凄く歳をとり、当然暴力など震えないほど弱弱しくなり・・・

父が主人に「百子を頼む」と頭を下げた一言に何か緊張が解けたのを覚えています。

 

それからまた数年

毎年新年1日に私は人生の振り返りをする習慣の中で、「父も苦しかったんだ」とふと気づきました。

暴力は決して許されない。

けれど誰にも変われない苦しさと苛立ち

親だから子供から逃げられなかった祖父母

今は想います。

「病気」って家族すらも巻き込む問題なのだと・・・

 

学生の頃は、医者になりたかった。特に救急救命士

けれど、今私が選んだのは「生きる力を支える」こと。「生きる術を伝えること」

私の育成歴のブラックな記憶は、今はここに辿りつくための経験であり、学びだったと思えます。

 

介護や病気に向き合う人も少なくないでしょう。

経験してない人に慰めも同情もされたくないでしょう。

けれど同じ苦しみを感じてるもの同士なら寄り添い、力を合わせ、策がでるかも!!

 

私はセラピストになりたかったのではない。

生きる力を命の育む人生を送りたいと思っています。

それは「恩返し」

今は、女性を癒し、病にならないように寄り添い。食べていける力を分かつセラピスト養成スクールをスタートし、

でも、一人親の子供の自立教室と60歳~の働く場所をつくり親子が羽休めをする「安堵の杜」を作るのが私の人生の目標です。

 

子供たちを抱きしめてあげたい

子供たちに生きる術を教えたい

子供たちに楽しい記憶をつくってあげたい

 

母親に息抜きの時間をつくりたい

母親に仲間をつくりたい

母親に泣く場所をつくりたい

 

今は「公園」が欲しい。

木々が風に揺れる公園に・・・

子供の自立教室と女性の自立をサポートする場をつくりたい。

60歳からでも働ける場所。寄り添える場所。

母子が拠り所にできる場所。

私が多くの人に助けられたように・・・

残りの人生をすべて注いで・・・

 

 

「病い」それは本人だけでなく、家族も巻き込む

健康で生きたいものです。